貴重な文化財は、多くが見ることはできても触れることはできないのが普通です。このように文化財に「触れさせられない」現場で、どうやって本物の魅力を伝えるか──。そんな課題に対して、3DVRという方法が一つの答えとなるかもしれません。この記事では、国立歴史民俗博物館での実際の取り組みをヒントに、文化財を守りながら学びに活かす方法を探っていきます。
国立歴史民俗博物館で登場した“着ることができる”展示
文化財にふれることが難しいなか、国立歴史民俗博物館では、江戸時代の小袖を3Dで「着る」体験展示が行われました。展示の内容と、その背景にある工夫を見てみましょう。
江戸時代の衣装をバーチャルで体験
実際の展示では、江戸時代に着られていた小袖を、3Dスキャンでリアルに再現。タブレットやPC上で、小袖を着た自分の姿を動かして見ることができるようになっていました。画面内で回転したり、角度を変えて見ることができ、背面や袖の柄の細部までじっくり観察できます。
この展示は、従来の「展示物を見る」形式とは違い、あたかも自分がその服を身にまとっているかのような感覚で文化財を体験できるものでした。視覚的な没入感だけでなく、服の形や動きによる印象までつかめる構成が特徴です。
なぜ「着せた」のか?展示のねらいと発想
この展示の根底には、「触れさせられないものほど、体感で伝える方法が必要になる」という考え方がありました。衣類のように、本来は“身につけることで完成する”文化財は、展示ケースの中に置かれたままではその魅力を伝えきれません。
そこで、バーチャルで“まとう”体験が企画されました。素材にふれることはできなくても、着たときの形や雰囲気、動いたときの揺れ感など、目で見る情報を補う形で伝えることができるのです。
制作の裏側には大学との連携も
この展示は、国立歴史民俗博物館と龍谷大学・曽我研究室との連携によって実現しました。博物館に保管されている小袖をもとに、3Dスキャンとモデリングの技術を用いて、リアルな再現が行われています。
衣装のデータは、実測に基づいて忠実に作られており、ただのアバターではなく、歴史的な資料そのものを活用した“教育可能な3Dモデル”として構築されました。再現にはミリ単位での調整も行われ、布の厚みや折れ曲がり方も含めた緻密な作業がされています。
展示の場は期間限定だったが資料として残る
この展示は、2024年10月〜12月に企画展「歴史の未来―過去を伝えるひと・もの・データ―」の中で公開されました。現在は常設ではありませんが、展示で使われた3Dモデルや再現方法は、今後の教育コンテンツへの応用が検討されています。
教育利用やオンライン教材としても活かせる素材となっており、博物館や学校教育との橋渡しになる可能性があります。
壊さずに“触れる”ためのもうひとつの方法
文化財に直接触れられないという制約の中で、どうすれば子どもたちにその魅力を伝えられるか。3DVRを使った学びの形に注目が集まる理由は、そこにあります。
展示ケース越しではわからないことがある
実際の文化財展示では、ガラス越しでの観察がほとんどです。照明の反射や距離の制限で細かい柄が見えづらかったり、構造を理解しづらかったりすることもあります。
たとえば着物の場合、袖の内側の縫い合わせや、裏地との色の対比といった“細部”がその美しさを決める要素になります。そうした部分は、通常の展示形式ではなかなか伝わりません。
3DVRでは、360度どこからでも自由に拡大・回転して見られるため、細かい部分まで観察が可能になります。
教材として“見る”だけでなく“使える”という強み
3DVRのメリットは、ただ見るだけの映像や写真と違って、教材としての応用が効く点にもあります。授業中に「この部分を見てみよう」と指示して観察させたり、「本物との違いはどこにあるか?」と問いを立てたりと、能動的な学びの起点として活用できます。
さらに、3Dデータを使って自分でアバターに着せ替えたり、立体的に再現された空間に配置することで、文化財が“触れられるもの”として理解されやすくなります。
本物を守るための技術でもある
文化財は、照明や温度、湿度、さらには人の息や手の皮脂などでも劣化します。展示のたびにダメージが蓄積してしまう繊細なものも多く、保存と公開のバランスに悩む博物館も少なくありません。
3DVRを活用することで、実物を移動させたり、頻繁に展示することなく、その価値や姿を伝えることができます。触られないからこそ長く残せるという保護の視点と、学びの現場に届くようにするという教育の視点がうまく結びついています。
現場を直接見せることができないというジレンマ
文化財の学びを深めたいと思っても、実際に現地へ行ったり、本物を間近で見せたりすることにはさまざまなハードルがあります。移動や安全管理の制約、そして展示物そのものの取り扱いの難しさが、先生たちの悩みのタネになっています。
現場を見せたくても、できない理由はたくさんある
移動にまつわる負担は意外と大きい
校外学習や博物館見学を計画するには、移動手段の手配から保護者への案内、事前の下見、安全対策まで、多くの手間と時間がかかります。特に中学校や高校では、学年単位での移動が必要になることも多く、貸切バスの手配だけで数十万円というケースも少なくありません。
スケジュールが合わない、という壁
授業の進度や学校行事、定期テストなどと重なると、見学の計画自体が難しくなります。年間スケジュールに余裕のない学校ほど、「行けるなら行きたいけれど現実的には無理」という状況に陥りやすくなります。
人員配置の限界
引率する教員の数にも限りがあります。学年全体を連れて行くには複数の教員が必要ですが、教務や部活動の関係で人数がそろわないことも。結果として、「やりたいけどできない」状態が続いてしまいます。
展示されていても“見せられない”文化財もある
繊細なものは間近で見ることが難しい
たとえば、古文書や織物などは光や湿度に弱く、展示期間が短かったり、レプリカ展示に差し替えられていたりする場合があります。また、展示ケースの反射や照明の当たり方によって、細かい模様や筆跡が見えにくくなることもあります。
文化財そのものの安全を考えると公開が制限される
文化財は移動や展示のたびに少しずつ劣化します。そのため、一部の貴重な資料は“非公開”として保管されており、一般の見学者どころか研究者でも直接見ることができない場合があります。教育のためとはいえ、すべてを見せることはできないという現実があります。
体験することでわかることがある
静止画や模型だけでは伝えきれないことを、3DVRは補ってくれます。とくに、身体を使って“見る”体験が、歴史理解につながるきっかけになることもあります。
着て動くことで、はじめて気づくことがある
静止画では伝わらない布の動き
江戸時代の小袖のような衣装は、見た目だけでなく、動いたときの形の変化や裾の広がり方に魅力があります。VRで着てみることで、腕を上げたときの袖の動きや、体をひねったときのしなやかさまで確認できます。これは、写真やガラスケース越しの展示では得られない感覚です。
身体スケールとの比較が理解を助ける
自分の体に重ねてみることで、文化財が「どのくらいの大きさだったか」や「当時の人の体格との違い」などにも自然と関心が向かいます。子どもたちが「思ったより大きい」「意外と重そう」といった感想を持つことで、より深い理解につながっていきます。
子ども自身が発見する“問い”が生まれる
ただ説明を受けるのではなく、自分で動かして、見て、感じて気づいたことには説得力があります。
「なんで袖がこんなに長いんだろう?」
「歩きにくくないのかな?」
そんな素朴な疑問が、調べ学習や探究活動の入口になります。
VRは、知識を“与える”というよりも、気づきのきっかけを“与える”教材として役立ちます。
教材であると同時に、保存の手段にもなる
文化財は、できる限り人の手から遠ざけて保存する必要があります。でも、それだけでは教育の現場には届きません。3DVRは、その橋渡しをしてくれます。
原物に負担をかけない
展示や貸し出しが不要になることで、文化財への負荷は大きく下がります。これは保存の面からも大きな意味があります。特に、展示回数に制限のある繊細な資料などでは、デジタル化の意義がさらに大きくなります。
“教材用の再現”ではない、本物に基づいた体験
歴史資料をもとにした3Dモデルは、単なる再現映像ではなく、実測に基づいた資料としての信頼性を持ちます。教育現場でも「リアルに近い教材」として使える安心感があります。模型やアニメーションでは伝わらなかった「本物にふれる学び」が、実現できるのです。
ただ見せるだけじゃもったいない
3DVRは便利なツールですが、見せるだけで終わってしまうと、印象に残らず消化不良になってしまいます。本物との違いを意識しながら、使い方を工夫することが大切です。
画面越しの“実感の薄さ”に気づいておく
温度や手ざわりが伝わらない
3DVRでは形や模様は正確に再現されていても、素材の質感や重み、冷たさや柔らかさといった“体感的な情報”は伝わりません。たとえば絹のしなやかさや、織りの密度のような触れてわかる要素は、どうしても欠けてしまいます。
だからこそ、「体験できた気になる」ではなく「見たことをきっかけに、他の方法でも調べてみる」ように導く工夫が求められます。
VRだけで完結させない授業設計
使ってみるとわかりますが、VRを見せた直後の反応には個人差があります。映像のきれいさに驚く子もいれば、「すごいけど、これって本物なの?」と戸惑う子もいます。映像のリアルさが逆に、現実とバーチャルの区別を曖昧にしてしまうこともあるのです。
そのまま次の授業に進んでしまうと、“見たつもり”で終わってしまいます。体験後に質問を投げかけたり、グループで感想を共有したりして、「感じたこと」を言語化させる時間を確保することが、理解を深めるポイントになります。
誤解を防ぐためのちょっとした配慮
「これは本物ではない」と明確に伝える
3DVRはあくまで再現映像です。正確なモデルではあっても、“本物そのもの”ではありません。この違いをあいまいにすると、資料としての位置づけがズレてしまいます。
たとえば「本物は光に弱くて展示されにくいから、これはデジタルで見せている」と補足してあげるだけで、子どもたちの理解はまったく違ってきます。
本物と並べて比べる視点をもたせる
可能であれば、パンフレットや書籍などで実物の写真も一緒に提示して、「どこが同じで、どこが違うのか」を比較させると、理解が深まります。3Dモデルをそのまま受け取らせるのではなく、批判的に見せる視点を持たせることが、学習効果を高めるカギになります。
手元にあるもの・できるところから
3DVRというと「準備が大変そう」「機材がないと無理そう」と感じるかもしれませんが、実際には手軽に始められる方法もたくさんあります。まずは、今使えるものをうまく活かすことから始めてみるのがおすすめです。
ゴーグルがなくても3DVRは使える
タブレットやPCでも十分に体験可能
VRゴーグルがなくても、ブラウザや動画サイトで動かせる3Dコンテンツは増えてきました。画面を指で動かしたり、マウスで回転させたりできるだけでも、立体的に見る感覚はしっかり味わえます。
学校のICT環境にもよりますが、1人1台の端末がある環境であれば、生徒に自分で操作させながら観察させることもできます。ゴーグルのような没入感はないものの、操作性の自由度は高く、むしろ授業には向いている場合もあります。
環境に合わせて見せ方を工夫する
たとえば、大きなモニターで教員が動かす形でも充分効果があります。みんなで一緒に見ながら「ここ注目して」「裏側どうなってると思う?」と問いかけていくことで、体験を共有することができます。
無理に全員に体験させようとせず、限られた機材で“見せ方”を工夫することのほうが、かえって効果的です。
公開されている3Dコンテンツを探してみよう
教育用に公開されている資料を活用する
博物館や教育機関では、3Dモデルを無料で公開しているケースがあります。たとえば、国立歴史民俗博物館で公開された小袖の3D体験のように、学習目的で使える再現コンテンツが用意されていることがあります。
こうした素材は、権利的にも安心して使えるうえ、精度も高いのが特徴です。検索のコツは「文化財 3D モデル」「〇〇(地域名) VR 学習」などで探してみること。思った以上に、使える素材が見つかることがあります。
探したコンテンツを「使える形」に落とし込む
見つけた素材をただ見せるだけでなく、「この映像を使ってどう学ばせるか?」を設計してみてください。問いを立てたり、気づいたことを書き出させたり、既存の授業に組み込む方法を考えることで、3DVRはただの資料から“学びの道具”になります。
難しいことをする必要はありません。まずは使えるものから取り入れてみる。その一歩が、授業の可能性をぐっと広げてくれます。
3DVRを教育に活かすために
3DVRのコンテンツがいくら精巧でも、それだけで“いい授業”になるわけではありません。大切なのは、どう使うか、どう問いを立てるか。映像を学びにつなげるための工夫をいくつか紹介します。
映像を見せっぱなしにしないための問いの立て方
教材とセットにして考える流れをつくる
3DVRを使うときは、関連資料と一緒に使うと学びの幅がぐっと広がります。たとえば小袖の再現映像を見せる前後で、当時の身分制度や生活習慣を紹介した資料を読ませておくと、「なぜこの柄が使われているのか」「誰がこの服を着ていたのか」といった視点が生まれやすくなります。
単に見せるだけではなく、「この服は何を表しているのか?」「どんな場面で着られていたのか?」という問いを添えることで、生徒の観察が深くなります。
比較させることで考えるきっかけをつくる
別の衣装との比較、同じ時代の他国の衣装との違いなど、視点を変える問いを用意するのも効果的です。「この服と似ている服は現代にもある?」「似ているけど違うところはどこ?」というように、身近な感覚に引き寄せると、より興味を持ってくれることがあります。
話す・考える授業と相性がいい
ディスカッションの導入素材として使う
3DVRは“無言で見る”だけの素材ではなく、会話の種にもなります。生徒同士で感想を共有させたり、「自分が当時の人だったらどんな場面でこの服を着てみたいか」など、仮想的に考える時間をつくってみてください。
正解がある問いより、「どう思った?」を引き出せる問いのほうが、3DVRと組み合わせると効果的です。
感覚の違いをそのまま活かす
感じ方や印象は人それぞれなので、全員が同じ答えにたどり着く必要はありません。「きれいだった」「重そうに見えた」「動きにくそうだった」など、ばらつきのある反応こそが、議論のスタートになります。そうした感覚の違いをあえて出していくことで、授業の展開にも広がりが出ます。
本物に出会えなくても伝えられることがある
文化財に実際にふれられないからといって、あきらめる必要はありません。3DVRを通じて、本物の良さをしっかり伝えることは可能です。大切なのは「どう見せるか」より「どう届けるか」です。
伝え方ひとつで印象は大きく変わる
本物を見せなくても“本物らしさ”は残せる
再現されたデジタルデータであっても、細部へのこだわりや、素材に基づく正確な寸法などがあれば、それは立派な“学べる資料”です。
再現された3Dの小袖を通じて、「布がどのように縫われているか」「模様がどう配置されているか」といった情報を得ることで、実物にふれなくても理解が深まります。
本物に出会えたときの“準備”としても機能する
実際に博物館へ行ったときに「見たことがあるからこそ、違いがわかる」ようになるのも、3DVRのメリットのひとつです。事前に立体で見ておくことで、展示を“わかる目”で見ることができるようになります。これは、後から振り返って「体験しておいてよかった」と感じるきっかけにもなります。
教育と保存、どちらも支える使い方を考える
動かせない資料でも伝えられる手段をもつ
移動できない、展示できない資料でも、3Dであれば学校や家庭に届けることができます。保護が必要な資料でも、教育の現場に“姿”だけは届けられるという点で、3DVRは非常に有効な手段です。
教育現場の制限に合わせて使いやすくする工夫
時間や機材、教室の広さなど、授業にはいろいろな制限があります。それでも、ちょっとした映像や3Dモデルを「考えるきっかけ」として使うだけで、授業の質が変わります。派手な演出は必要ありません。「何をどう伝えたいか」を整理するだけで、3DVRは立派な教材になります。
教育と保存のどちらも妥協したくない。そんな思いをかたちにできる方法として、3DVRは現実的で柔軟な選択肢のひとつです。小さな一歩でも、まずは使ってみるところから始めてみてはいかがでしょうか。